シャトー・オーブリオンの偉業
シャトー・オー・ブリオンは1855年のメドック格付け当時からあまりにも有名であったため、メドック地区外から5大シャトー1級に格付けされた唯一のグラーヴワインです。
オー・ブリオンは、ナポレオン戦争で敗れたフランスの救世主とも言われています。
ナポレオン戦争の敗北により国の崩壊という危機的状況に追い込まれていたフランスでしたが、当時の外相タレーランは、敗戦国の処遇を決める1814年の「ウィーン会議」で、連日連夜、各国代表に豪華な食事とこのオー・ブリオンを振る舞いました。
これによって各国代表も態度を軟化させ、フランスは敗戦国でありながら領土をほとんど失うことなく乗り切ることができたといいます。
シャトー・オーブリオンの歴史
オー・ブリオンの誕生は1550年頃。
シャトーの創始者であるジャン・ドゥ・ポンタックが、結婚の際に妻がオー・ブリオンの土地の一部を持参したことがきっかけでした。
その後、少しずつ周囲の土地を買い集め、1550年にワイン醸造のための設備を造り、正式にシャトー・オーブリオンが誕生しました。。
その後、アルノー3世の代にイギリス市場で取引されるようになったオー・ブリオンは名声を高めるために、ボルドーからイギリスに移します。
1666年、ロンドンに「l’Enseigne de Pontac」という居酒屋レストランを開くと、評判となり、「ロンドンでただ一つの小粋な店」と呼ばれるようにまでなりました。オー・ブリオンは、特定の畑名で売り出された最初のボルドーワインでもあります。
スーティラージュ(澱引き)やウイヤージュ(補酒)といった今では当たり前となっている醸造技術を世界で初めて取り入れたのもオーブリオンです。
ウィヤージュによって、以前とは比べ物にならないほどの品質が上がり、17世紀イギリスでは「ニュー・フレンチ・クラレット」と呼ばれてもてはやされたそうです。